ブログを書くときは頭を冷やせ、という教訓

抱きしめていい子いい子してくれ、なんて言わない。ただ、黙って隣を歩いてくれればいい。そのことが、ふたたび顔をあげて前へ進むための力になるから。

げはあ。のた打ち回るほど恥ずかしい。何このポエム。
でもまあ馬鹿っぷりが面白いのでそのまま晒しておきます。

自殺の是非について、昨日のまとめ

もしも目の前の苦しみから逃れたいのなら、自殺はひとつの選択肢たりうる。鬱屈した心の吐き出し口として、挑戦的な遺書を残してゆくのもありだ。
けれど、いじめっ子の反省を求めたり、学校や役所の対応の改善、さらにいじめの撲滅を求めるならば、自殺は決してその手段とはなり得ない。
それだけのこと。

棺を覗き込んで嗤う子供たち

わ、もう1月も前のニュースなのか。

673 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2006/10/22(日) 13:21:07 id:JengqUk9O
同じ人間とは思えないし、思いたくもない。
【野獣に人権なし】

でも、戦争(特に宗教がらみの)なんかだと、敵の死体をさらに冒涜する、なんてことはフツーにあるんですよね。むしろ味方の士気を高める行為として賞賛されたりする。
この子達も、同じ動機からこうした行為にでてる気がする。いじめた子を、あくまで自分たちの仲間として認めまいとするために、その死を冒涜する。彼らの小さなコミュニティの中では、それは仲間の結束を高める行為として賞賛される。けれど彼らは同時に、学校や社会といったもっと大きなコミュニティに属している。彼らにはそういう自覚はないのだろうけど、それは厳然たる事実であって、しかもそのコミュニティを脱しては生存できない。
そして大きなコミュニティには現在、「たとえ自分とは違う外見・思想・宗教を持っていても、そのことを理由に相手を攻撃してはならない」というルールが建前上とはいえ存在し、彼らは今、そのルールに従って断罪されているところ。
彼らは人間ですよ。そして人間は必要さえあれば、自分が殺した相手の死を冒涜することができる動物です。

いじめられている人はなぜ逃げないか

「逃げ場を作れ」という論調のブログ、多いですね。私も、逃げ場を作ること自体は必要だと思う。でも、作っただけでは、おそらくそれは逃げ場として機能しない。
「逃げ場を作れ」の人が同時によく言う「なぜ逃げないんだろう」。「なぜ逃げないんだろう→逃げ場がないからだ→逃げ場を作ればOK」あるいは「なぜ逃げないんだろう→逃げちゃいけないと思ってるからだ→逃げてもいいんだといえばOK」。
いじめられている人が逃げない理由のひとつに、「いじめられている間は『いじめられっ子』という形で集団の中に自分の立ち位置を確保することができるから」ということがあるのじゃないかと思う。仲間はずれにならないためならいじめられたってかまわない、というか*1。その立ち位置を失うこと、集団の一員ではないという烙印を押されることは、いじめられるよりはるかに恐ろしいこと。DVの共依存みたいなものかな。

しかし、この国の学校では同時に、同級生たちと「仲良く」できないのはそれ自体が罪悪である。それはしばしば、「いじめる」ことよりも罪が重いとみなされる。

そうそう、そんな感じ。

*1:「そんなふうに考えるからいじめられるのだ」えーえーそうでしょうよ、お説ごもっとも。で、そんなふうに考えないためには、具体的にどうしたらいいんですかね?当たり前に与えられているものって、いざ失うと、自力で獲得するすべがわからずにオロオロするものですよ。

「いじめられっ子にならない方法募集」について

正直、私もあんまりいい気はしない。自分さえいじめられなかったらいいのか、って思ってしまいます。もちろんブログ主さんにはそんな意図はないだろうけど。自分がいじめられなくても、その結果ほかの誰かがいじめられるようになるんだったら、意味はないんじゃないのかな。
かといって「いじめっ子にならない方法」ってのもなんか違う気がする。なんだか言葉遊びをしているみたい。「わが子をいじめっ子にしない方法」あるいは「いじめたいという気持ちを抑える方法」だったら多少は実用的かなあ。
「いじめられている友達を(自分がいじめのターゲットになることなく)助ける方法募集」ってのはどうだろう。かばえば自分がいじめられるから、いじめに加担する、あるいは見て見ぬふりをする、という子供が多いのだったら、そしてその子達が本当は助けることを望んでいるのだったら、情報としての「助ける方法、そのことで自分がいじめられない方法」の集積は、役に立つんじゃないかな。

いじめられている友達を(自分がいじめのターゲットになることなく)助ける方法

で、具体的には何か方法があるんだろうか。個人的には「いじめられるのが怖くて見てみぬふりしちゃったけどごめんね、本当はあなたは悪くないって思ってるからね」ってメッセージをこっそり伝えてくれるだけでも、いじめられる子にとってはずいぶん力強いとおもうんだけど。「自分は一人ではない」と実感できることって、本当に大きな力を与えてくれると思います。
でも自分の過ち(見てみぬふりをした)を直視するのって、場合によっちゃいじめに立ち向かうより難しいんですよね。

いじめられる理由は、その子がその子であること(あるいはのび太のくせに生意気だ)

幼稚園か小学生低学年のころ、実際にうけたいじめ。名簿順だか席順だかに従って数人ずつのグループに分かれて昼食を食べてたときのこと。グループのリーダー格の子が言う。
「この班の中で、○○(私)のことが嫌いな子ー!」
私を除く全員が当然のように手を挙げる。抗議したところで押しつぶされるのは判っているので、私は黙って嵐が通り過ぎるのを待とうとする。が、周囲はそれを許さない。
「なんでお前手を挙げないんだよ。やーい仲間はずれ。」
ひとしきりはやし立てた後、もう一度同じ質問が繰り返される。今度は私もおずおずと手を挙げてみる。待ってましたとばかりに周囲が再びはやし立てる。
「こいつ自分のことが嫌いなんだってー。変な奴ー!」
もうね、どうしろと。
「そんなことくらいで」と思うかもしれないけど、自我すらまだしっかり確立できてない6つかそこらの子供にこれは、相当きついですよ。
いじめられっ子がいじめられる理由。キモいだのくさいだの太ってるだの勉強ができないだの、そんなことは後付けでしかない。その子がいじめられる理由はただひとつ、その子がその子であること。「いじめられる原因」とやらを改めたところで意味はない。その子がその子である限り、一挙手一投足がいじめることの根拠になる。そんな馬鹿な、と思う人は、タイトルに挙げた某いじめっ子の定番台詞を思い出してほしい。すべての言動が否定されるこの苦しみから逃れるためには、自分であることをやめるより他はない。だから、いじめによって自殺する人は、正しく「いじめられる原因を改め、いじめられなくなるための努力」を……
えーとすいません、何でもないです。忘れてください。

いじめか否かの境界

職場に、仕事はできない、外見を一言で言うと不潔、人格にも問題があって全員に嫌われている人がいるとします。当然のごとく、その職場の人は全員、何か仕事上の必要が無い限りその人と話なんかしません。仕事上必要でも嫌々ながら最低限の話をするだけですし、必要が無ければ徹底無視!いわゆる「村八分」状態です。

答えはない、と書かれてるけど、私の回答。

  • これは「いじめ」だと思いますか?

No。だって、仕事上必要な話はしてるんでしょう?もし、仕事上必要な情報であっても、その人が嫌われているからという理由で伝えられなかったり、その人の仕事が否定されたりするのであれば、それはいじめ。でも、その人が職務を遂行することに対して理不尽な妨害があるのでなければ、いじめとは違うと思う*1

  • 悪いのは誰だと思いますか?

「悪い」というのがよくわからない。問題があって、その原因あるいは対処すべき責任が誰にあるのかということ?嫌われている社員の性癖によって他の社員が職務遂行へのモチベーションを失うなどの問題が発生しているなら、適切な対処をとることによって問題を解決する義務は、誰より、その職場を管理している上司にある。上司は「業務命令として」性癖の改善をその社員に求めればいいし、それでも改善されず、かつ改善されないことに相応の理由*2がないならば、正式な手続きを経た上で解雇するなり何なりすべき。周囲に悪影響を及ぼすというのは解雇の正当な理由たりうる。

  • あなたがこの職場にいたらどう行動しますか?

問題の人物にもそれ以外の人物にも等しく、仕事上必要な会話のみかわし、自分の仕事を済ませてさっさと帰り、プライベートの仲間と楽しく過ごします。

  • (問題の人物を除く)職場の人はどうすべきだと思いますか?

改善に向けて働きかけるなり我慢するなり、それぞれに、自分が正しいと思うことをなし、そしてその結果をそれぞれ自分で引き受ければよいかと。
いじめという行為は、ニュートラルではありえない。ゼロではなく、マイナス。必ず、いじめる対象を害しようとする意思が存在する。個人的な好悪が重なった結果としての孤立、というのは、それ自体もちろん問題ではあるけれど、いじめとは別の問題として対処する必要があると思う。
いじめる側の、「相手を害しようとする意思の有無」をもっていじめか否かの線引きをする。それはいじめる側の自覚不自覚、罪悪感の有無、さらにいじめられる側の苦痛の有無すら関係ないと思う。たとえば、知的障害者の言動を周囲があざ笑っている時、笑われている本人が、周囲は楽しくて笑っているのだと勘違いして、一緒になって笑う*3。これは本人が苦痛に感じていないからいじめではない、と言えるのか。

これは「いじめっ子」の常套句であり、「いじめ」を語るときに一番言ってはいけない台詞だ。思慮の浅い人はさらに「この程度のことを「いじめだ」などというのは社会性が足りないのではないか」とまで言うだろう。

むしろだからこそ、いじめとそうでないものの線引きはきちんとする必要があると思います。たとえ悪いことを非難したとしても、その非難への反動というのはかならずあるものです。無駄に、反動勢力に付け入る隙を与えてやることはありません。いじめを糾弾するにしても、自分たちに都合のいいように捻じ曲げて非難することは決してしない、という態度をきちんと表明しておかないと、それを逆手に取られてhttp://d.hatena.ne.jp/tkmisawa/20061113/1163411722#20061113f1みたいな非難を受け、まぎれもないいじめですら精神論の問題にすりかえられ、否定されるのがオチです。

*1:もっとも「嫌々話す」ってのはなかなかに微妙ですが。「嫌々」の態度をあからさまに表明することで、その人を傷つけようという意思があるんならいじめになるかな。

*2:例えば、精神疾患等により本人の意志だけでは改められないとか。その場合でも、休職させるとかカウンセリングに行かせるとか手は講じないといけないと思いますが。

*3:実際にはこういうケースってあんまりないと思いますが。知的障害がある人って、周囲の人の自分に対する感情は、周りが思うよりも敏感に感じとってると思います。