「相対的」って言葉をあんまり「絶対視」しないほうがいいと思う。

えーと、反応先の本題については、ほとんど追っかけてないので、何も言うべき言葉は持ちませんが、部分的に反応。
月も見えない夜に。 - ■佐々木俊尚:「ことのは」問題を考える について少しだけ3

ネットが実現したのは決して「絶対的正義」を振りかざす群れではなく、むしろ「相対的正義」を主張する何千万という小ブロゴスフィアなのである。それらは、時として確かに一つのターゲットに向けて、集中的に批判を浴びせる。
しかし重要なのは、それらに全て「自由」が保証されており、互いにチェックしあう反論の機会が与えられているということである。もしも今混乱があるとすれば、これらの小宇宙が、火花を散らしているのであり、何か「絶対的正義」を振りかざす一連の群れが秩序だって一つの対象を攻撃しているというのとは違う。

機会の平等って、結果の平等には結びつかないんですよね。
「何千万の小ブロゴスフィア」は、「互いにチェックしあう反論の機会」を保障するために小さく分裂したのじゃなく、逆に小さくまとまることで「その内部における相対的絶対性」を高めるほうに作用してる気がします。しかも無自覚的に。
例えばコメントやTBを開放してることをもって、自分の態度が相対的・客観的であることの根拠としてしまうとか。確かに匿名コメントも受け入れ、検閲・削除をしないとしても、それらへの反応が6:4とかで自分への賛同意見に傾いてしまえば、それは「自分の正義の絶対化」へのベクトルになりうる。でも「人情として」誰だって賛同意見に心を寄せたくなる衝動はあるわけで。
「血を流さなければならない」というのは簡単だけど、「そうは言ってもやっぱり痛いのはイヤだよ」という気持ちが誰にも、もちろん自分にもある。その事をどこまで自覚できるか。その難しさを考えると、「自分の意見の相対性」なんてのはかなり割り引いて考えとく位でつりあうんじゃないかと思ってます。